最近、すっげ-思ったことがあるんですね。
日本は維新に成功して近代国家を形成し得た。
日本は今度はアジアの近代化における魁たらんと欲した。
そして朝鮮などを開国せしめるに至った。(様々な過程があり不平等条約となるが)
このとき朝鮮も清も何世紀にもわたって支配してきただけに、王朝の腐敗というものが深刻に存在した。
(徳川幕府は腐敗により力が衰えて、と一般的には言うけれど、自身は全くそうは思っていません)
そこで両国は日本同様の革命が必要とされるはずなのに、それが成功しない。
それはなぜかというと、日本に於いては幕府を倒したら、もうひとつの受け皿として皇室というものが存在したからなんですね。
なるほど、李氏朝鮮にも清にもそれは存在しない。皇帝(≒天皇)自身が王朝を開いてるからです。
そこで彼らの国の改革者たちは、明治維新のように「下から上に及ぼす」のではなく「上から下に及ぼす」といったいわば宮廷改革たらざるを得なかったのではないか、韓土の孫文と謳われた金玉均や、湘軍軍閥の創始者、北洋大臣の李鴻章らがそうであったように。
それは金玉均が甲申事変におけるクーデターで、東学党に一切注目していないところなどそうではないだろうか。
つまり、革命は成功してもそれは改革には至らず、延々と中世に繰り返してきた政権交代の一つに他ならなくなってしまった、と。
(反面、朝鮮における反日感情というものは、文禄慶長の役の禍根を残しており、それが親日方針を取っていた金玉均の障害となってしまったという側面もあるのだが。)
焦点を日本に戻します、
なぜ日本は脱亜してしまうに至ったのか、それを考えるとどうも皇室の存在にいきつくんですよね。
明治維新に於いて新政府は天皇家という新たな受け皿を強引に担ぎ挙げる、良し悪しは別として超短期間で近代化を成し遂げた。
しかし、天皇家とはこの時すでに象徴的な存在になってしまっていた。
王政復古の大号令に基づいて天皇親政が再開されるに至るのだが、古代律令制以来、天皇が親政をおこなったことはない。
天皇家が親政を取ろうとした際には必ずと言っていいほど擾乱が巻き起こされている。
(後鳥羽天皇の承久の乱、後醍醐天皇の南北朝の争乱など)
中世以降、天皇家とは象徴的たらざるを得なかった、そうせずして天皇家の存在を保つことはできなかった。
つまり天皇家というものは、日本「神道」における最上位に象徴的に存在しているだけであり、言いかえると実質、大神主に過ぎなかったということだ。
この象徴的である天皇家というものを受け皿にして、当面の近代革命を果たすことはできたが、その受け皿が強引であったがために間違った国策を打ち出してしまったのではないかなと。
山縣有朋は、実質が伴っていない天皇というものを神聖という装飾を用いてカモフラージュした、それに起因するのではないか。
間違った国策云々に関しては見解によりけりですけどね。
それでも自分はアジアの近代化の魁となりえたのは幸運だったと思っています。
結局強大な軍事力なくして国の独立は保ちえませんからね。
明治維新について思ったことでした。
ぬまの
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