頼山陽の著作「日本外史」を切り口に思ったことを書こうと思う。
頼山陽とは頼春水の子、江戸後期(幕末より一歩手前の時代であろう)の歴史家であり、それである以上に思想家であった。
頼山陽の編纂した「日本外史」とは画期的であった。なにがかと言うと、「初めての日本通史」だったからである。
当時の学問で今でいう史学とは「中国史」であった。
つまり、知識階級の人々は中国史には精通しているが、自国の歴史はほとんど知らないという一見奇異であるが、しかし当時としてはこれが常識であった。
そこに現れたのがこの「日本外史」である。
しかし、頼山陽が多分に思想的であるために、その思想、つまり尊王思想というフィルターにかけられた歴史観に基づかれていた。
江戸後期と言う時代は思想が氾濫していた時代であったが、それが歴史学にも反映されてしまった。
歴史学とはどうあるべきかというと具体例に司馬遷を求めたい。「史記」とは事実に忠実に、そして淡々と、克つ主観を交えずに書かれたものである。
これが純・歴史学であろう。
この「日本外史」という著作は幕末、競うように読まれた。
そのために、明治初期に実証主義といわれる研究者たちが現れるまで「日本外史」の伝説的な歴史は信じられていたのだ。
これを破った人物が重野安鐸である。彼は薩摩出身の歴史学者であるが、ここでは彼に触れない。
さて、この日本外史は歴史学に基づいてみると、江戸幕府が開かれるところまでのようだ。
本書では10代将軍・家綱の時代まで扱われているようであるが、どうやら後半は歴史ではなく人事のようだ。
さて、よく言われることは楠木正成の伝説的な活躍などが有名であるが、
もうひとつ見逃してはならない事がある。
「鎖国」についてである。
鎖国については1637年の島原の乱に前後してその体制を確立させた。
しかし、頼山陽の「日本外史」についてはそのことに一切触れられていない。
当時の草莽の志士たちは、鎖国があたかも神州始まって以来の古法であったと認識していた節がある。
この例ひとつを挙げても、当時の人たちの自国の歴史に対する認識の甘さが窺える。
当時攘夷を掲げて東奔西走した志士たちを見ていると多少滑稽であるが、
ともかく頼山陽が志士たちに与えた影響というものは多大であった。
例えば、御陵衛士で伊藤甲子太郎の弟である三木三郎という人物がいるのを御存じであろうか。(鈴木三樹三郎とも)
彼は安政の大獄で処刑された思想家の一人・頼三樹三郎に傾倒しており、そこから名を頂いた。
他には徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れるとさっさと大阪城を捨てて江戸に逃げ帰ってしまった。
これは歴史を意識したもので、「日本外史」においては(というか後期水戸学)足利尊氏は大逆の叛臣であり、
それを意識してのことであろう。
彼の思想的行動も「日本外史」という著作を抜きには理解することができない。