吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

維新2

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本日で最後のゼミとなりました。大変お疲れさまでした。御存じかも知れませんが、私沼野は常に歴史のことを考えております。

最近ひらめいた維新についてお話します。

「明治維新はなぜこうも短期間で成立してしまったか」。このテーマは1年やそこらでは解き明かせない大きな設問でしょう。

明治維新という一連の改革の中に「版籍奉還」更には「廃藩置県」があります。

近代的な中央集権国家の成立のカギとして、上記の二つが速やかに行われたという事実を踏まえなければなりません。

当時の日本は一つの大きな国家ではなく「藩」もしくは「天領」そして多少の御料所が存在し、犇めき合っていました。

「廃藩置県に際しては薩長土から1万の御親兵が供出され、武力を背景に半ば強制的に領地を召し上げた」。

一般の教科書ではこう書かれているでしょう。しかし自分は、実際は違ったと考察しています。

では何がその根底にあったかと言うと、先進的な西洋文明に対して「畏怖」と「憧憬」、この二つを含有した言葉が当時の人々の共通思想であったと愚考します。

「思想」というと語弊があるかもしれませんが、つまりは直感で感じ取る共通認識だったと思われます。

「近代化をなさなければ、植民地にされる」。すこし極端かもしれませんが、端的に言えばこういうことです。

半ば諦めの気持ちを持って大名たちは藩を手放した。

当然要因はそれだけではないでしょう。以下3つを挙げます。

・戊辰戦争で財政が圧迫されていた。

・藩主は華族として東京での暮らしを保障されていた。

・徳川幕府の封建制度のシステム自体が満期を迎えていた。

という側面的な背景もあるでしょう。しかし、これらだけでは説得力に欠けますし、直截の要因にはなりません。

廃藩置県の際にはただ一藩すら反乱に踏み切らなかったことに着目してください。

廃藩置県には御親兵1万が動員されたといいます。この数は、数字のみでは大軍だとはいえません。(当然この雄藩三藩は近代装備ですので戦力的には問題ないでしょうが。)

他に目を向けます。例えば幕末では「眠れる加賀藩」と言われた加賀百万石の前田家。

中世においては、1万石でおよそ200から300の兵士を動員できると規定されています。つまり加賀藩では、この計算法に依ると2、3万の軍勢を動員できることになります。

当然安土桃山時代の計算と幕末でのそれは違います。しかし、御親兵と対等に渡り合えるだけの兵力を有するという事実だけは確かです。

さて、加賀藩は当然一例にすぎませんが、なぜどの藩も近代化への反発というものがなかったのか。

それは先ほども述べたように、西洋文明の普遍性への「畏怖」と「憧憬」でしょう。

当時の人々にとって、「富国強兵しなければ日本は滅びる。」というものは共通認識であったといってよいでしょう。

歴史を俯瞰できる我々は、当時の世界情勢を知り、さまざまな要因から日本が植民地化される可能性は低いということを知っています。

(セポイの乱によるイギリスの植民地政策の転換、アヘン戦争やアロー戦争、南北戦争、ヨーロッパ人が中国(清)市場に着目していたことなどなど)

しかし、当時の日本人はそうはいきません。入ってくる世界情勢の情報量としては決して少なくありませんでした。しかし、当時としては日本人は西洋がアジアに加える脅威を目の当たりにし続けました。例えば、19世紀初頭からロシアの南下に脅威を感じ続け、加えて、アヘン戦争などは逆に当時の人々にとって「次は日本だ…」と思わせる逆の要素にも加わりました。

ロシアの南下に関しては、ロシア軍艦対馬占領事件や、千島樺太交換条約という強硬な外交政策がそのまま日本人の恐怖(というよりは危機感)となっていました。

以上の要因が版籍奉還、廃藩置県をスムーズに行わせる最大の要因であったでしょう。

日本は島国です。なのでより一層、西洋文明とはどのようなものか、その実態をつかめずぼやけて日本人の視野に写ります。

なので近代化への進歩の欲求というものは、半ば脅迫観念となり、当時の人々を動かしたのでしょう。

これに似た具体例を、自分は律令国家の成立と重ね合わせることができます。

律令国家の成立とは仮に大宝律令が制定された701年だとしましょう。

この大宝律令を以てして初めて日本は統一国家の様相を成しました。それまでの大和政権はどのようなものかと言うと、諸豪族の連合政権でした。

その代表者が大王(おおきみ)として一応頂点に君臨します。しかし、それは飽くまで代表なだけでした。

そこに唐風の律令制度というものが導入されます。

律令とは行政法です。なのでそれまで諸豪族が有していた農地や農民を悉く国家が所有し管理するというシステムです。

日本史を勉強してきて、この律令制度に反発したという痕跡(考古学的な)や筆跡(史学的な)ものは見当たりません。

これも明治4年の日本同様、当時の人々は「唐や新羅も律令国家(すなはち文明)」という概念があったのではないでしょうか。当時は当然中国が日本にとっての文明国だったのは言うを俟ちません。

なので豪族たちはなかば諦めて土地や人を手放すに至ると。私はこう愚考します。

以上維新について思ったことを、そのまま綴りました。

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