吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

今週のゼミ活動記録(4年前期第6回)

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こんにちわ。副ゼミ長の末永祐馬です。ログイン名がtakumaになっていました。なぜでしょう(笑)

司会、水野。レポーター、緒方。世に棲む日々三巻

今日のレポーターの主な内容は豪商について。長州の豪商白石やお慶さんという商人と武士の関係の相関図がとても見やすい。レポーターの質がすごいよくなってきました。個人的には小曾根さんの情報も知りたかった。そんなこんなで今回の議題。

1、豪商が私財や命を投げ打ってでも長州を支えようとしたのにはどうゆう思いがあったのか

2、長州が力を持ち、そして維新において存在感を持った理由はなにか

1の議題。

豪商も多くの知識や思想を持ち、考え方が志士に合うものがあった。という意見がチラホラ。これは、緒方のレポートによる、豪商がただ利益を得ることだけを考えず、先祖や公共について考えていたという緒方レポートの影響が大きかったですね。豪商白石が後に破産するのもうなずけます。

そして、貿易により海外の影響力を感じ、武士よりも危機感があったのでは。との意見もでます。ただ、商人としては、志士を支援というのは投資という意味が大きかったのではないか。これによりできる大きなバックの見返りを期待していたのではないか。との意見も。江戸時代という平穏の中で戦っていたのは、武士ではなく、商売という世界の中で常に戦っていた商人こそが、自分が何をすべきかという感覚を育てていたのではないか。そのため、志士を支援するという冒険ができたように思えます。

豪商たちは(高杉晋作に陶酔した白石正一郎は別ですが)やはり戦争も商売、稼ぐ、または士農工商から脱するチャンスをうかがっていたように思えます。

ここで議論が終わり先生から、「豪商はものを流すのであって、国としてものづくりは発展しない。そこが商人としての限界であった。」

との意見が。だから、市民革命ではなく、国のことを考えた武士の革命なんだとみな納得していたような記憶が。あっていますかね?自分の記憶があいまいで、すいません。

議論2、長州が力を持ち、そして維新において存在感を持った理由はなにか

ぬまたんが、歴史的考察として、やはり戦国のうらみがあると意見を放ちます。足を江戸にむけて寝るだとか、幕府に恐れながらも反発心があったと。

ゼミ長がどっと意見を出します。江戸時代の武士道というものは受け身になっている。武士道とは主体的であるべきだ。自分の思想をもって、それを行動に移すことがでくりひとたちが本当の意味での武士道をもっている人だ!そして新撰組も会津も吉田松陰も武士道があり、自分の信念を貫き通すという点で松陰のいう「狂」であった。しかし、大半の長州人は個人としての意見がなく、その点では「狂」とは言えないが、そのような松陰と高杉のような実行者がいたので回天ができた。

他の人からも、しかし、時代の中では尊王攘夷自体が、江戸幕府を覆すという「狂」であって長州藩自体が「狂」となっていた。だからこそ長州が日本を動かした。

まとめ。非常識が常識になる、それが革命。その非常識が変わりゆく中で、多くの血が流れる。

この作品を通して、僕が思ったのは、高杉晋作がいかに、破天荒か。これまでいろんな歴史小説を読んできましたが、今でかつてこんな人はいなかった。どこでも放尿したり、奇兵隊つくったと思えば、坊主になったり、また80人で藩を変えるクーデターしたり。

本当に魅力的ですが、理解が不可能。そこがまた魅力ですな。

では今日は第4巻

次回の書き込みの人はその日のうちに書くことをお勧めします(笑)

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