吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

4年後期第1回ゼミ記録

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さあさあ。後期のゼミも今日から始まりました。

3年生の方には新しく留学生の方が入ったようで。うちのゼミが少しでも勉学の助けになれば幸いですね。

ところで、ルーマニアといえばゲオルゲ・ハジですね。サッカー史上でも屈指のパッサーでしょう。最近、ハジみたいなすさまじいパッサーっていないですよねー。

 

本日のゼミ課題図書は『翔ぶが如く』1巻でした。ついにこの本に手を付ける時が来ましたね。1巻はまさに序章といった感じだったので、議論自体はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりでしたが、その分僕は思い付いたことベラベラ喋れたので良かったです。

議論の中で僕が「西郷は加速器のようだ」と発言しましたが、自分の頭の中では完全にコレです。時勢、感情、思想、武力、あらゆるものが西郷を通すと加速・増幅されその勢いや威力を増している印象なんですよね。恐るべき特質だと思います。とにかく普通じゃないです。

 

ここからゼミに関係ない話。

議論の中でもちょっと言いましたが、僕みたいなSF読みはこういう特異な人物、特異な現象の出現になにか理由を付けたがります。「それが西郷だから」とか「そういう気風があったから」みたいな漠然としたものでは納得ができないのです。

だっておかしいじゃないですか。なんでこういう混迷の時代に限って、西郷や龍馬のような史上屈指の能力と特異性を持ち、「今まさに必要」というようなタイミングで活躍するんですか?それも、日本だけに限らず、世界中で同じような事が起こるじゃないですか。おかしいじゃないですか。

「おかしい」と思ったら、何かがそこにあるんです。そう考えるのがSF脳だと思います。そして、SF作家はそこにフィクションを、「もしも」を当てはめます。それによって「おかしい」を仮定的に解決し、とりあえずその先に進もうとするのですね。

その「もしも」は簡単なところで言えば、「神」だったりします。あえて「神」を選ぶこともあれば、考えに考えてもっと小難しいものを当てはめることもあります。とにかく、突拍子のない「もしも」でも、それさえ当てはめれば、その事象を論理的に導けるような形の方が気持ちがイイわけです。

その「もしも」を考えること、そして、ある「もしも」を当てはめた時に導かれる理論展開やストーリーを考えること。これが楽しいんですね。

例えば、ゼミ合宿で『幕府軍艦「回天」始末』を読んだ時、「なんで榎本達はこんなに最後まで戦ったんだろう?」という疑問に対して、僕は「榎本と新政府側が元から示し合わせた戦いであったら・・・」というようなことを言いました。これはまさに「もしも」を考えたわけです。突拍子がない「もしも」でも、「武士の意地で・・・」みたいな漠然とした感情論なんかより、その先が考えられるんですよね。

さらに言えば、アインシュタインっているじゃないですか。彼が一般相対性理論を考えている時、色々とやってたら(小難しいから僕もあやふや)、「宇宙は収縮している」っていう結論が出ちゃったんですね。でも、実はアインシュタイン自身は「宇宙っていうのは常に一定の形を保っている」という考えの持ち主だったんですね。これはおかしい。彼はさらに考えました。そして、最終的に宇宙を表す式に加えたのが、「宇宙定数」っていうやつです。これは当時は万有引力と考えられていた重力と反対向きに働く斥力のこと。宇宙の外側に向かって働く力ですね。これがあれば、宇宙の内側(中心側)に向かって働く重力を相殺して、宇宙はその形を保つというわけです。でも、この「宇宙定数」ってのは決して観測上確認されたものではありませんでした(今は研究が進んでいるそうです)。つまり、この「宇宙定数」ってのも壮大な「もしも」だったんですよ。もちろん、SF小説の「もしも」とは次元が違いますが。アインシュタインがいいかげんを言っていたってわけではないですし。でも、見方によっちゃあその「もしも」があったからこそ、一般相対性理論という物理学史上に残る偉業が成し遂げられた、と言えるのではないでしょうか。

「おかしい」と思うことへの探求心と、そこに「もしも」を当てはめてでも何かを導こうという意欲や想像力っていうのは、時にとてつもなく大きな成果を上げるんですよ。楽しいじゃないですか。こういうことって人間にしかできないじゃないですか。素晴らしいことじゃないですか。SFって楽しいですよ。

 

長々と書きましたが、これが僕の小説の読み方であり、小説の楽しみ方なんです。SFでも、歴史ものでも、それは変わりません。

自分なりの楽しみ方を見つけると、読書って楽しいですよ。

 

 

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