吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

3年後期第2回ゼミ記録

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こんにちは、木下です。

先週のゼミ記録の更新遅くなってしまい申し訳ありません。

課題文献は司馬遼太郎の「王城の護衛者」でした。レポーターは中村(美)さん、司会が折田さんでした。

この本は会津藩主、松平容保について書かれたものです。今まで燃えよ剣など新撰組中心の物語を読んで、新撰組の立場から会津藩と松平容保を見てきました。といっても、それほど多くは触れてこなかったと思います。今回、容保の目線で容保の立場から見ていった事で、今までのイメージから一変、新たな発見がいくつもありました。

議論の中で最もみんなが注目したのは、松平家の家訓と神道の信仰についてでした。

松平家家訓・第一条:将軍のためには死ね(P65)

という強烈極まりない内容が、いかに容保の心の奥深くに刻み込まれていたことか。

更に、松平家の宗教は他大名と異なり、神道でありました。この伝統的思想によって、容保は天子を神裔と信じて疑わなかったのです。容保が神の子孫であると信じていたその孝明帝が、容保に寄せる信頼と優しさについても議論している中で多く挙げられた話題でした。

この二つの要素が容保の大部分を占めていることは明らかです。家訓によって徳川将軍家に対して絶対的忠誠心を持ち、神道によって天皇に対して絶対的信仰心を持っていた。松平容保にとってどちらも超大切な存在だったのです。

さて、議題に入ります。

議題1.松平容保の人物像とは?(孝明帝を含む周辺の人物を魅了したもの)

まず皆が真っ先に挙げたのは、政治的能力の低さという点でした。以前読んだ徳川慶喜が策士であったのとは正反対と言えると思います。それゆえ、頭が悪いのか?といった少々気の毒な意見も多数ありましたが、P65にもあるように“純粋で誠実だけが取柄”であり、ただただ真っ直ぐな徳川将軍家への(強すぎる)忠誠心と天皇は神という神道思想を貫き通したその意志は良い意味で頑固だ、という意見も出ました。時代にのまれ巻き込まれた容保は初志貫徹したために厳しく孤独な人生を送ったのです。もし乱世の世に生まれなければ…。

議題2.天皇と容保の関係性 互いに信頼し合っていたのか?何が二人を強く結びつけたか?

P14「土津霊神」 “これを守るためにそなたの生涯がある”と教え込まれた容保は神道のその思想通り天子は神という絶対的な考えを持っていました。そのため天皇御直筆の手紙など神からの手紙同然であったのです。四国半刻ばかり泣き続けた(P90)のも私財をはたいて尽したのも、すべては神道の思想から天子を神と信じていたためであり、政治的要素は一切無いのです。なぜ天皇がここまで容保を気に入ったのかという点について、この政治的要素が無いという事によるという意見が多く出ました。

議題とは直接関係ありませんが、将軍家に強い忠誠心を持っているはずの容保がなぜ始めは京都守護職を頑なに断り続けたのか、という疑問がありました。しかしこれは容保が会津藩という大藩の主であり、その藩を家を守らなければいくら将軍家に強い忠誠心を持っていたとしても、意味が無くなってしまうからという意見でまとまりました。藩がつぶれては家がつぶれるも同然で忠誠を誓う云々ではありません。徳川将軍家への忠誠心を貫くため、まず藩を守ろうとしたまでです。

最後に二つの議題を話し合ったまとめを…。

家訓と神道、つまり徳川将軍家と天皇という双方に対する絶対的な忠誠と信仰が松平容保を動かした全てである、と結論しました。彼こそが己の信じるものを貫き通す武士であったのです。

あまり上手くまとめられませんでした…申し訳ないです。次回は「酔って候」です。

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