吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

2012年10月16日
から miho
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4年後期活動報告

3本目です。後期1回目は、司馬遼太郎さんの『花神(上)』を読み進めました。レポーターはかなえちゃん/司会は枝ちゃんです。

大村益次郎が主人公の作品です。蔵六(益次郎)といえば、靖国神社ですね。8月末に武道館付近に行く用があったので、少し足を延ばし蔵六さんにお会いしてきたばかりだったので、なんだか妙な親近感をもって読み進めることができました。“大村益次郎”と聞くと戦を戦い抜く才がある人でなんだか末恐ろしい人物なのかと思っていましたが、上巻ではまったくそんな雰囲気はなく、語学に堪能な村医者の生まれのお兄さんなんていう印象に変わりました。

 

では、ここで本題に移ります。2つの議題について話を進めていきました。

議題1 同年代を生きた政治家や思想家との違い

議題2 他の蘭学者(洋学者)が幕府に起用される中、蔵六は長州にこだわって何をしようとしたのか

 

1については、なんだか難しかったですね。今まで読み進めてきた作品の主人公と違い、蔵六には出世欲がない印象を受けました。さらに、長州人は議論を好み理屈家が多いイメージでしたが、蔵六は議論を好まず議論を交わさない人でした。この2つが今までの人とは違ったところですね。

 

2については、蔵六自身が肩書きを気にしない人間であったことがうかがえました。宇和島藩の藩士になり、また江戸で教鞭をとっていたにもかかわらず、結局は生まれ故郷の長州に戻り、貢献したいという気持ちを抱いていたのではないか。あくまでも“村医者”としての自分であり、それを全うすることが第一優先事項であったのではないでしょうか。

語学をはじめ多岐にわたる才能を兼ね備えていたため、周りに巻き込まれ、最終的に藩を率いることになってしまった。

 

上巻だけでは、正直、蔵六の人となりを理解することは難しかったです。しかし、中巻・下巻を読み進めながら、蔵六の人となりや新しい顔を発見できるかと思うと、本を読み進めたくてウズウズしています。

 

議題とは離れましたが、蔵六とイネの関係性についても話し合いました。ここが一番盛り上がったような気も・・・

2人の関係性はもちろん気になりますが、先を読み進めていく高揚感に駆られています。

 

次のゼミは、明日10月17日です。

だいぶ長くなりましたが、私の担当の部分を終わりにします。

 

それでは、ごきげんよう。笑

2012年10月16日
から miho
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4年前期活動報告

続いて、2本目です。

6月27日・7月4日の2週にわたり、木内昇さんの『幕末の青嵐』について議論をしました。この回の司会は折りちゃん、レポーターがかおりちゃんです。

 

最初に作家さんにより人物解釈が違うという話になりましたね。2期生は司馬さんイズムを受け継いでいるのか、司馬さんとは違う木内さんの描き方に新鮮さを感じながら読み進めることができました。

 

議題1 近藤は新撰組をどのような組織にしたかったのか。

議題2 「自分の死に場所をこの戦の中で見つけられれば本望だ」といった土方の心境は。

この2つについて議論を進めました。

1について。近藤は農民出身で身分のコンプレックスが少なからずあったのではないか。そのために上昇志向が強く、さらに自身の立場を明確にするため(武士として認められるため)新撰組を組織し、自身の地位を築いていった。ということでした。目的より結果を重視し実績として、新撰組を成り立たせていた?

さらに、思想の話にもなりました。新撰組の思想は弱いがために行動はしやすいが、思想がない(学がない)から全員がまとまれず何人かの死者を出してしまったのでないか・・・。組織―思想―政治の関係性が重要であるという話になりました。

 

土方にとっては、近藤が一番であり自身は常に2番手。近藤があっての新撰組という考えが強いのではないか。逆に考えると、土方がいなければ新撰組は成り立たない。近藤の政治観では他の組織や藩のものに太刀打ちはできない。と個人的に考えてしまいました。リーダーの在り方やそれを支えるものの力を考えることができる作品でした。

 

なんだかだいぶ内容が薄いですね・・・。申し訳ないです。

 

 

2012年10月16日
から miho
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4年前期活動報告

日がだいぶ空いてしまいましたが、活動報告をさせていただきます。どうも、こんにちは。最近の秋らしい空気に癒されている、中村美です。

それでは、活動報告を始めます。私が担当したのは、なんと3回分!!約4か月も怠っていました。大変申し訳ない・・・

1つ目は、歳月(下)6月20日にやりました。レポーターは、えみり/司会はかおりちゃんでした。物語は、江藤新平を中心に進んでいきます。この時の議題を“江藤はなぜここまで大久保の憎しみをかったのか”と設けていました。皮肉にも江藤は自身が導入した手配写真の制度により捕まってしまいました・・・。さらに、さらし首にされるという当時を考えると大変ショッキングな事件になったと考えられます。

小説の中で、“江藤に対する処刑はできるだけ惨刑であることが望ましい(p. 409)”に触れながら、大久保の心情を探っていきました。大久保の立場からすると、苦労して作った明治政府を江藤(士族たち含む)に潰されたくはなかったのではないか・・・。士族の不満を佐賀の乱へと導いた江藤新平をどうにか静かにさせなければならなかった。そのために、江藤を捕え、さらし首にし国民(不平士族や西郷)に対する見せしめとしたのではないかという話になりました。当時の不平士族の数は約180万人。180万人分の不満を紛らわすために、一人の思想家である江藤の首をはねた・・・という結果になりました。

 

新聞制度が1871年(横浜毎日)・74年(東京日日)に整っていたことがわかりました。江藤が処刑されたのが1874年であったことを考えるとあくまで推測ですが、さらし首の写真を新聞に載せることを大久保自身が考え、国民全体に対する見せしめの形をとっていたのではないか・・・。大久保の恐ろしさと明治政府に対する思いの強さを感じました。非常なぐらいでないと国を回せない。どこか納得してしまいます。国を思い、天性の才能(官僚をつかいこなす才)を持っていた政治家だったのでしょうか・・・。

今の政治・政治家について考えるきっかけになりました・・・。

 

次に続きます・・・

 

 

2012年6月6日
から kaori
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4年前期第5回ゼミ活動報告

こんにちは、4年の福嶋です。
まずはじめにすみません!!書記ノート大事に大事に保管していて、更新するのが思いっきり遅くなってしましました…
というわけで、前回の更新から約一か月ぶりという事実に驚愕しながらも記録していきたいと思います。

前回の議論は遡ること5月9日、司馬遼太郎「峠」の下巻。
レポーター:内記さん、司会:折田さん でした。

議題:
1.長岡藩にとって継之助はどんな存在だったのか。また継之助の功績とは。
2.継之助がいう「美」とはどのようなものだったのか。

1の議題についてですが、「藩にとっての継之助」というよりも、「継之助に対しての藩」として考えると、継之助の考え、抱く理想に対して長岡藩は応える力がなかった。という印象が強かったように思います。
幕軍にも付かず、官軍にも付かない。一藩独立構想って、聞いただけでも途方もない事業に感じますよね。それを彼は本気でやろうとした。
藩の力に対して抱いた理想が大きすぎて、招いた結果が北越戦争という悲劇に繋がったとも言えるのではないでしょうか。反対にいえば、長岡藩のような小さな藩ではなく、大藩に仕えていれば継之助も存分に力を発揮していたかもしれない。

彼の功績については、結果として残るものはこれといってなかったかもしれない(だから後世にもあまり有名でないのかもしれない)けど、その過程に意味があったのではないか。
商業の面でスネルさんとのパイプを繋いだり、何よりも一藩独立構想という考えは彼の一番の功績と言えるのではないでしょうか。

それから前回からちょいちょい継之助と龍馬が比較されているのが面白い点だなと思いました。
功績について議論している時に、「継之助は立場主義のくせに、身分不相応な行動をしているんじゃないか」って意見がありました。これもつまるところ、「彼の技量、行動力に対して藩が小さすぎた」という事なのでしょうが、大体なんで彼は藩にこだわったのか。
彼の「立場主義」というのが大きいと思います。継之助は長岡藩の小禄ながら代々役人を務める、割合いい家柄に生まれました。その分藩に対する忠誠心も厚かった。
比べての龍馬は、土佐藩の中でも身分が低い家に生まれ、その分藩に対する忠誠心は薄かった。
この違いが継之助には藩中心の考え方をさせ、龍馬には藩を超えた「日本」をとらえた考え方をさせたのはないでしょうか。

次いで2の議題。継之助の「美」とは?
あれですね、小千谷会談が失敗に終わり一藩独立構想が不可能になった時。この後どうするんだろう、と思ったら彼は武士としての「美」を追い求めましたね。
なんか、意外だなーという印象を受けたのですが、皆様どうだったでしょう?それまで「行動主義」をモットーとしていろんな政策を打ち出した彼が、ここへきて武士としての「美」か、と。
それまで一藩独立を目指して諸国遊歴して学び、藩の家老として様々な施政をしてきた目標が消えてなくなってしまった時、最終的な目標として武士という「立場」としての「美」を追い求めて戦争をしたという事なのでしょう。

まぁこれって結果論というか、もうどうにもならない事だし個人的な意見なんですけど。小千谷会談、成功させてあげたかったですよね…
あれさえ成功していれば、長岡という小藩でも一藩独立も目前だったし、何よりも戦争を回避していた継之助の苦労というか政策というか、報われた訳じゃないですか!
長岡藩との関係をチラつかせた会津。基本的に会津には同情的な気分を持ってますけど、あの場面ばかりは憎かった…笑
なんというか、どうしてもその話の中心人物に肩入れして読んでしまうんですよねえ。常に中立な立場で読めるようになりたい。

この小説読むまで継之助のこと知らなかったんですけど、「峠」を通して彼のことを知って、好きになりましたねー。面接で幕末明治維新について聞かれることが多いんですけど、最近は継之助を猛プッシュしています(笑)
小久保さんが「今、こんな政治家が必要なんじゃないか」って言ましたよね!本当だと思います。彼の「行動主義」は是非とも見習いたい。

はい。そしてこの3週間は1週休講を挟んで映画「桜田門外の変」を見ました。
いやーすっきりしない最後だったー(笑)なんというか、エンタテイメントとしての映画としては少し辛いものがあったかと…その分(?)当時を知る資料としてはすごく参考になったと思います。
当時の旅の様子とか、武士とそれを匿う庶民(でいいのか?)の関係とか、すごく詳細に描かれていると思いました。

長くなりましたが、第5回のまとめを終えたいと思います。
次回、というか今日は「歳月」です。江藤新平についてもそうだし、明治維新後の日本政府についての知識が未だ乏しいので、これを機にまた学んでいきたいと思います。

2012年5月3日
から haruka
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4年前期第4回ゼミ活動記録

先ほど未掲載分の記事に記名を忘れてました。4年吉田ゼミ体育会系担当ゼミ長小谷です。

生ビール最高!!というわけで、3年生もよろしくです。

ようやっと本題です。ちょっと前の話ですが、今年度の初回の授業では、先生から漫画に見る時代の風潮の講義を受けました。非常に興味深かったです。

やっぱり日本マンガは勧善懲悪スタイルが良いんですかね。海外のホラー映画なんかを観てるとまー報われない報われない。 FINAL DESTINATIONシリーズとかは良い子の皆さんは観ちゃダメですよ。やっぱり今のマンガのトップってONE PIECEなんでしょうか。あれはワードがいいです。個人的なおススメはGIANT KILLING(講談社刊)。プロサッカーの監督の話です。そんなジャイキリから主人公・達海猛の言葉を借りて・・・「自分達を信じろ!!迷ってたら、喰う前に喰われちまうぜ

今回は “峠(中)” レポーター:高橋アツヒメ将行 司会:枝 記録:小谷

*議題

1近代的な軍隊の形成に対し、長岡藩および諸国の武士たちはどのような心情であったか。

2継之助にとって長岡藩に属すとはどういうこと?

そもそも近代的軍隊というとここで出てきたのは、洋式・調練・銃といったワードでしょうか。

調練ということですが、今までは戦というとぶっつけ本番だった日本。しかしそれでは個々人の力量に頼るところが大きくなってしまいます。腰抜けが何百人も集まった集団よりも、数十人の死を覚悟した勇敢な者達のほうがずっと強いわけです。体が反応するレベルにまで鍛え上げれば、それが本番での恐怖心を凌駕するんですね。

しかしながら、これに反発したのは藩の上士たちです。「身分が下の者と同じことができるか!!!」というわけですね。

銃に関しても、従来銃を持つのは足軽の役目でした。したがって「武士たるもの足軽などと同じものが持てるか!!!」というわけです。いやあ面倒です。武士。

武士における“刀”に対する一種の信仰心のようなものは他の身分には見られない特別なものですからね。帯刀することがいかに尊いことか・・・分かっていたって彼らにもプライドがありますし、そう簡単に捨てられませんよね。戸惑い、ジレンマ・・・継之助同様、彼らも悩み苦しんだことでしょう。そういった不安も相まって、“周りに合わせる”なんていう安全策を取ろうとした藩が続出したのでしょう。

結論としては「洋式軍備の必要性を感じながらも、帰属意識の強さから先鋒的立場になる勇気を持たない」という感じで。

2番目の議題の結論は「河井家に生まれたから」ということでさらっと流しますwww

時代峠”—今回の重要語句です。峠の頂上を境に近代と前近代に分けますと、その頂上で空を仰ぎ見ているのが継之助、近代のほうへすでに歩を進めているのが龍馬、前近代の側にいながら峠自体が近代へと流れてしまっているのが新撰組、というか歳三。

ここで端的に継之助の考えを表すと、「近世(武士として)の考えを守る手段としての近代文化」といった感じ。

あ、福沢諭吉でてきましたねー考え方は非常に継之助に似ていますが、あくまで似て非なるもの。立場が違います。継之助は藩の一家老ですが、福沢は外国方の幕臣。また、福沢はその目で外国を見てきているという点でも継之助と大きく違います。

もしも継之助が幕臣だったら・・・明治維新は遅くなったいたかも!日本は史上最大の軍事国家になっていたかも!

歴史に“もしも”はありませんが、考えるのは自由です。おもしろいです。これからもどんどん議論しましょう!!!

余談ではありますが、この本の中に出てきた「刀をまたいではいけない」という話。これは私のやっている剣道においても刀を竹刀に変えて引き継がれております。武士の世は終焉を迎えましたが、その根本にあった精神はこうして現代日本へと受け継がれているんですねぇ。こう、何事もプライドを持って取り組むことが大切だと思います。かの尾田栄一郎先生も言ってました。「全部自分で考えた!という自信が欲しいんですね。人に頼ったらまた次も人に頼っちゃうと思いますし、失敗したら人のせいにすると思います。うまくいったら自分の実力、失敗したら自分のせい。」この考え方ってまさに継之助なんじゃないかなー

長々と話してしまいました。とにもかくにも“責任”って感覚が、武士道の根本だと思います。あくまで持論です。面倒だなんて言いながら好きですよ。武士。

ところで、鳶色ってどんな色?