吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

2012年5月3日
から haruka
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4年ゼミ記録未掲載分

えーっと、実は今年度初書き込みなのでまずは未掲載分を簡単ではありますが載せておきます。

まずは前年のラストを飾った “世に棲む日々(4)” レポーター:小久保ンヌ 司会:フジモン

議題は「高杉晋作の功績」ということで・・・

チェ・ゲバラと晋作似てんじゃね?ってとこから松陰と晋作の比較、倒幕思想の大まかな流れなどを考えていきました。

松陰の革命的ロマン主義に対し、晋作は合理的精神を持っていた。最近の討論でも現実主義の河井継之助と対比してしょっちゅう松陰が登場いたしますね。

簡単な略図にいたしますと・・・

1、種をまいた—吉田松陰

2、実行に移した—高杉晋作

3、後処理—伊藤博文

ってな感じで。この図はⓒ高橋です。

 

はい、次が前回の4年初回活動 “峠(上)” レポーター:カオリン(祝)司会:フジモン

議題としましては、

1佐吉少年から見た継之助

2継之助にとっての“越後長岡藩”

そもそも河井継之助ってどんな人?ってことで、

・一種のナルシスト—「俺がやればうまくいくのに・・・」→嫌味じゃない

・金銭的余裕のある家柄→自由なことが出来た(江戸遊学)

・インプットのみの学問(特に陽明学)→師には向かない

・愛されキャラ(すべて本音で話すため)

などなど・・・とにかく何かやってくれそう、自身に満ち溢れてるな、といった印象や他人とは違う何かを感じさせる雰囲気が佐吉の心をつかんだのでしょうかね。

継之助の「幕府と徳川家は違う」という考え方はこの議論において重要だった気がします。徳川家には忠誠を誓いながら、幕藩体制は認めない。西国出身だったら倒幕運動に身を投じていたと言うほど幕藩体制自体には見切りをつけていながら、仕えた藩主は譜代大名牧野家・・・そんなジレンマの中彼が選んだのは、長岡藩を独立中立国に仕立て上げることだったわけですね。

 

といった感じで、未掲載分の書き込みを終わりマース。

 

 

2012年1月11日
から kanae
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3年後期第九回ゼミ活動記録

新年になりましたね。皆さん今年もよろしくお願いします。藤本です。更新が遅くなってしまってすみません。

さて、今回は「世に棲む日日」の三巻です。レポーターは中村(美)さん、司会は中村(枝)さん、書記は藤本でした。中村さんのプレゼンでは、井上聞多、奇兵隊、伊藤俊介などの人物について説明をしてくれました。また、長州藩とは、一つの思想団体でとらえられ、政治的な面では俗論党(佐幕派)と奸臣党(松下村塾門下生派)の二つの派があり、その二つの政党が政権を争っているとまとめていました。高杉については、長州は滅んでもかまわないという姿勢だが藩主は守るという考えをもっているとまとめてくれました。

議題は、「①晋作にとって、忠誠を誓う藩を壊してでも得たかった、求めたかった新世界(革命)とは – 何から影響を受けたか、晋作にとっての革命、長州にとっての革命」「②松陰の狂を引き継いだ志士たちが目指した日本とは – 藩として、国として」

議論では、三巻の内容は多くの出来事に触れられていたため、それを整理しつつ話を進めていきました。まず、攘夷から開国という転換には何があったのかについて考えました。それは思想ではなく政策としてで、焼き討ちなどの具体的な行動は幕府への不満を示すものだったという意見が出ました。また、高杉にとっては上海への留学が影響を与え、開国するしかないという考えになったのではないか、尊王攘夷と倒幕が密接になっていたためではないかという意見もありました。

それらを踏まえたうえで、①と②の議論に進みます。第二巻では「狂」とは何かといった議論がありましたが、その延長線上で考えると、狂には二種類あると結論が出ました。一つは松陰からの狂で、ここぞという所で自らの命を捨てるという様。もう一つは、そこから派生して頭がくるっている様。この二つの違いは前者(松陰)の死には意味があったが、後者の死には意味がなくただの死であるということです。また、今回の議論の重要な点は「尊王とは」ということ。長州藩は尊王攘夷運動がさかんな藩で、それは松下村塾門下生に大きな影響を与えていました。その尊王を実行するのには幕府の存在が邪魔で、まっすぐ尊王に向かっていく中で幕府は眼中になくなります(蛤御門の変)。そうして出た第三巻のまとめは、「すべての根底には尊王があり、尊王の名の元に松陰の「狂」を引き継いだ晋作たちは倒幕へのむかっていく」となりました。

次回はいよいよ最終巻です。そして3年最後の議論になります。一年間の集大成となる議論ができるといいですね。

2011年12月31日
から 須山
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2011年最後の日です。

もう0時を回ってるので、12月31日。2011年も今日で終わりです。

更新をサボりまくっていた4年ゼミ長の須山です。

 

2012年は人類最後の年などと言われています。映画もありましたよね。あれ「マヤの予言」とか言われて、まあマヤの暦の区切りが2012年の冬至の頃に来るわけです。紀元前3114年からずっと積み上げられてるマヤの超長期暦のケタが変わるとか、そんな所だったと理解してますが、なんでそれが「滅亡だ!」ってことになるんでしょうね?日本目線で言えば、2012年は震災からの復興をドンドンと進めといくべき年、いかなければいけない年でしょうから、これで2012年に今度は人類滅亡だなんつったら、空気読めてなさ過ぎです。

 

そんな話は置いておいて。

今年も一年間、ゼミの活動お疲れ様でした。4年生はいよいよ残す所あと2回です。なんとか『翔ぶが如く』10巻読破できそうで、僕はそれが嬉しいですよ。1人でも多く参加してもらって、議論ができれば、と思います。

3年生はそろそろ就活が本格化してきていますよね。大変でしょう。

ゼミの活動もなかなか厳しい所が出てくるとは思いますが、上手いこと両立させられるよう工夫してみてくださいね。僕は、ゼミ長としてその辺の配慮というか、理解が足りませんでした。

 

ただ、就活がどんなに忙しくても、このゼミに籍を置いている以上は、本を読み、考えることを捨て置かないで欲しいです。僕達が勉強し、見本としてきた幕末の偉人達は、常にそれを忘れていなかったはずです。それこそが根のトコロにあったはずです。

 

 

年越しは地元に居ます。

では、よいお年を。

2011年12月27日
から eriko
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3年後期第8回ゼミ活動記録

こんばんは、中村(枝)です。更新物凄く遅くなってすみません。
今回は扱ったのは『世に棲む日々(ニ)』です。
レポーターは小谷さん、司会は福嶋さんです。
1巻では吉田松陰の話が主でしたが、2巻から高杉晋作が登場し、高杉が上海に行くところまでが描かれています。また、この巻で松陰主の話は終わりです。
今回の議題は
1、吉田松陰の功績は?
2、思想家松陰/現実化晋作
の2本でした。
 
松陰の功績として真っ先に挙がったものは松下村塾でしたが、世に棲む日々を読んで、松下村塾は元々松陰が建てたものではないという事がわかりました。松陰は何か歴史に残るような事件、革命を起こした印象はないので、それならば何が松陰の功績かということになり、松下村塾出身の人物(松陰の門人)に注目すると、桂、高杉、久坂、伊藤などそうそうたるメンバーでした。この門人たちには様々な功績があり、その人たちの師は吉田松陰で、つまり松陰は種をまいたということになります。まとめると松陰の功績とは、次の時代の偉人たちを育てた(良い面に気付いて世に輩出)という結論に達しました。

二つ目の議題では松陰と晋作の対比をしました。
松陰はできるできないかではなく、実行してみるというタイプの人間で朱子学の影響(実行ありきの思想)を受けており、その結果計画性がない。
一方の高杉はこの時点ではまだ従順で、家柄による足かせもあって、理想を追い求めたりせず、一歩引いたところで物事を見るタイプという印象でした。

議論の途中で吉田先生に、思想の方も取り入れて議論ができるともっと良いというアドバイスをいただいたので、それを次回からいかせたら良いなと思いました。
次回は世に棲む日々3巻で、年内最後のゼミです。最近風邪がはやってるのでみなさん気をつけてください。

2011年12月14日
から kaori
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3年後期第7回ゼミ活動記録

こんにちは、福嶋です。
後期に入って2人の交換留学生を迎え、12月には台湾から短い間でしたが留学生を迎え、いよいよ吉田ゼミの国際交流色が強くなってきたように思います。笑
国際日本学部って感じがして良いですね!

大変遅くなりました、第7回ゼミ活動の記録です。

第7回は司馬遼太郎著の『世に棲む日日(一)』について議論しました。
レポーターは折田さん、司会は木下さん、書記は福嶋でした。

高杉晋作や久坂玄瑞を始め幕末期に非業の死に倒れた者、また伊藤博文を始め明治維新後まで生き延び新政府高官の地位に就いた者。その多くを輩出した松下村塾の創始者、吉田松陰の年少期から青年期にスポットを当てた『世に棲む日日』の第一巻。

個人的な感想としては旅、旅、旅…
寅次郎は何処まで行くんだ、と言いたくなるくらいにひたすら旅を続けている印象が強く残りました。しかしこの旅での友人、師匠との出会いによって彼自身が影響を受け後の松下村塾での教育に繋がることは言うまでもありません。

今回の議題は「吉田松陰の人物像とは」
議論の中でまず挙げられたのが松陰の持つ「温厚さと過激さ」でした。
婦人的な優しさを垣間見せる場面があれば、極端な行動に出る場面もありました。例えば共に東北旅行に出、兄の敵討ちをすると言って分かれた友人のために彼の遺文を集め大和の師匠の元へ行くなどの友人思いの面があれば、友人との約束を守る為だけに脱藩を決意する、または自分の師匠であっても意見が違えば見限ってしまうといった極端な面がありました。
この2点が彼の性格の中核となっていたようです。

また彼の知識欲についても議論になりました。
幼少の頃から明倫館の教授として教壇に立ち、人に教授することで満足するのではなく彼は常に新たな知識を求めていました。そのために全国各地を遊歴し直接著名な人物に会い、その知識を磨きました。
議論好き、遊学を許可するなど勉学を奨励する藩風だった長州藩に育ったことは松陰にとって幸運だったようです。

松陰はゼロから物を作るタイプではないという意見から出た松陰と龍馬との比較がありました。
龍馬は知識を得たらそれを元に創造する。
松陰は得た知識を人に教える。そしてまた自分も学びたいと思う。
松陰が育て、知識を授けた高杉や久坂と同年代の龍馬が新たな物を創造した。この流れが個人的に面白いなと思いました。

全体のまとめとして、
学ぶことに対して恵まれた環境、また楽観的な家庭の中で素直に育ち、学ぶ意欲が旺盛な人物だった。
という人物像でした。

今週は第二巻に入り、話の主人公は松陰から門人の高杉晋作に移ります。
遅くなった上に短い記録ですみませんでした。
今日の議論も張り切っていきましょう!

2011年10月30日
から haruka
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3年後期第5回ゼミ活動記録

次回の課題作品“輪違屋 糸里(上)(下)”をアマゾンで注文したら、下巻が先に届きました。

お初にお目にかかります、3年ゼミ長 小谷です。

今回の作品は“若き獅子”池波正太郎著でした。レポーターは高橋君、司会が中村(美)さんでお送りしました。

とても短い話だったので、あまり多くを知ることはできませんでしたが、大まかな彼の生涯を知るあくまで導入としての作品、といった感じでした。

議題が高杉の人物像ということでした。ひ弱な身体ながら、学問、剣術に秀でていました。そして、性格は激烈で、白黒はっきりした人間で、強引で・・・なんて思っていましたが!!!

上海への渡航をきっかけに、自藩の軍備を中心とした“遅れ”に気づかされた彼はまず、自藩、自国の強化、つまりいわゆる富国強兵が必要であるとし、吉田松陰はじめ過激派の鎮静化に奔走します。これが原因で脱藩までしてしまいます。

四国艦隊下関砲撃事件では、自藩のやったことでありながら、賠償金を幕府に払わせたり、彦島は神のものだから自分の判断ではあげられませんなどと言って納得させたり・・・とんでもないことをしでかしている高杉ですが、みんなの結論として、

“過激”でありながら“冷静”な革命家

が彼の人物像としてまとまりました。ただの豪傑ではなかったんですね~

その後は中村美保さんの持ってきたDVD「その時歴史が動いた」を鑑賞しました・・・が!

奇兵隊も編成し、さあこれから草莽崛起!!ってとこで時間となりました。次回に繰り越しです。ウズウズします。

ちなみに来週は明大祭で休講ですね。私は明マ横のサークル用掲示板前にてフランクフルト売ります。題して“尾田くん家” よろしくです。宣伝です。

次年のゼミ生も決まったことです。後輩にバカにされないよう、2期生これからも頑張っていきましょう。次回は我らが大好き新撰組関連の作品 輪違屋 糸里 です。そして 世に棲む日日 で第2期吉田ゼミ1年目が完結です。

だんだんと今の政治なんかに絡めて討論できるようになってきましたね。最近気づいたのは“歴史に名を刻む偉人には、デキる右腕がいる”ということでした。島津斉彬には西郷吉之助、山内容堂には吉田東洋・・・はてさて、野田さんにとっての右腕って誰なんでしょう??

ということで、華のない自分は1番ではなく、2番を目指したいと思います。新撰組でいう山南敬助・・・えぇ、土方じゃないです。平和主義なんで。あくまで、山南副長です。あ、決して1番がダメってことではなく、縁の下の力持ち的ポジションに憧れてるって話です。見えないとこで頑張るんです。

以上、見えないところでダラけちゃう小谷がお送りしました。

2011年10月14日
から emiri
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3年後期第2回ゼミ記録

 

こんにちは、木下です。

先週のゼミ記録の更新遅くなってしまい申し訳ありません。

課題文献は司馬遼太郎の「王城の護衛者」でした。レポーターは中村(美)さん、司会が折田さんでした。

この本は会津藩主、松平容保について書かれたものです。今まで燃えよ剣など新撰組中心の物語を読んで、新撰組の立場から会津藩と松平容保を見てきました。といっても、それほど多くは触れてこなかったと思います。今回、容保の目線で容保の立場から見ていった事で、今までのイメージから一変、新たな発見がいくつもありました。

議論の中で最もみんなが注目したのは、松平家の家訓と神道の信仰についてでした。

松平家家訓・第一条:将軍のためには死ね(P65)

という強烈極まりない内容が、いかに容保の心の奥深くに刻み込まれていたことか。

更に、松平家の宗教は他大名と異なり、神道でありました。この伝統的思想によって、容保は天子を神裔と信じて疑わなかったのです。容保が神の子孫であると信じていたその孝明帝が、容保に寄せる信頼と優しさについても議論している中で多く挙げられた話題でした。

この二つの要素が容保の大部分を占めていることは明らかです。家訓によって徳川将軍家に対して絶対的忠誠心を持ち、神道によって天皇に対して絶対的信仰心を持っていた。松平容保にとってどちらも超大切な存在だったのです。

さて、議題に入ります。

議題1.松平容保の人物像とは?(孝明帝を含む周辺の人物を魅了したもの)

まず皆が真っ先に挙げたのは、政治的能力の低さという点でした。以前読んだ徳川慶喜が策士であったのとは正反対と言えると思います。それゆえ、頭が悪いのか?といった少々気の毒な意見も多数ありましたが、P65にもあるように“純粋で誠実だけが取柄”であり、ただただ真っ直ぐな徳川将軍家への(強すぎる)忠誠心と天皇は神という神道思想を貫き通したその意志は良い意味で頑固だ、という意見も出ました。時代にのまれ巻き込まれた容保は初志貫徹したために厳しく孤独な人生を送ったのです。もし乱世の世に生まれなければ…。

議題2.天皇と容保の関係性 互いに信頼し合っていたのか?何が二人を強く結びつけたか?

P14「土津霊神」 “これを守るためにそなたの生涯がある”と教え込まれた容保は神道のその思想通り天子は神という絶対的な考えを持っていました。そのため天皇御直筆の手紙など神からの手紙同然であったのです。四国半刻ばかり泣き続けた(P90)のも私財をはたいて尽したのも、すべては神道の思想から天子を神と信じていたためであり、政治的要素は一切無いのです。なぜ天皇がここまで容保を気に入ったのかという点について、この政治的要素が無いという事によるという意見が多く出ました。

議題とは直接関係ありませんが、将軍家に強い忠誠心を持っているはずの容保がなぜ始めは京都守護職を頑なに断り続けたのか、という疑問がありました。しかしこれは容保が会津藩という大藩の主であり、その藩を家を守らなければいくら将軍家に強い忠誠心を持っていたとしても、意味が無くなってしまうからという意見でまとまりました。藩がつぶれては家がつぶれるも同然で忠誠を誓う云々ではありません。徳川将軍家への忠誠心を貫くため、まず藩を守ろうとしたまでです。

最後に二つの議題を話し合ったまとめを…。

家訓と神道、つまり徳川将軍家と天皇という双方に対する絶対的な忠誠と信仰が松平容保を動かした全てである、と結論しました。彼こそが己の信じるものを貫き通す武士であったのです。

あまり上手くまとめられませんでした…申し訳ないです。次回は「酔って候」です。

2011年10月8日
から 須山
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4年後期第2回ゼミ記録

4年ゼミ長、須山です。

最近、家から徒歩40秒ぐらいの所にできたラーメン屋が安くて美味いです。深夜にたべに行きたくなる衝動にかられます。まだ行ってませんが、さらに太りそうで危険。

 

第2回も引き続き『翔ぶが如く』。2巻に入ってもいまだ征韓論どうすんのというお話です。まだまだこれからですねえ。しかし、段々と登場人物が揃い、それぞれの立場や考え方は描かれてきましたように思います。

議論の方も基本的には人物に関する見方の確認、擦り合わせをしました。今の段階としては、まあこんなところかな、と。これからの物語でここで議論してきた人物達がどう絡み、どうドラマを作っていくのか気になるところです。

『翔ぶが如く』面白いです。

 

そして、来週のゼミはお休みですよ。ゼミの個別ガイダンスあるみたいなので、参加できる人は参加してみてください。

再来週、3巻に入りますよ。

2011年10月5日
から emiri
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発見されました!

今日のニュースに載っていたものですが…

近藤勇直筆の掛け軸が京都で見つかったそうです!

以下、記事のURLなので読んでみてくださーい。

http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2011/10/05/

20111005k0000e040009000c.html

と、貼ってはみたものの、記事が開けないようです…
どなたかリンクの貼り方が分かる人いらっしゃいますか?

吉田悦志です。えみりさんありがとう。このURLをコピペ

して検索すれば大丈夫ですよ。

 

2011年10月5日
から kanae
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3年後期第一回ゼミ記録

3年の藤本です。
台風の影響で一週間遅れで後期のゼミが始まりました。後期からは二人も留学生が増えて非常に嬉しいです。というわけでこの日のゼミははじめに留学生のお二人に自己紹介をしてもらったり、ゼミの説明などをしました。しかし気がつけば残り時間がわずかに。そのためやや駆け足気味で本題を進めました。

今回は豊田穣の「坂本竜馬」について話し合いました。発表は福島さん、司会は高橋くん。発表の内容は、まず竜馬の身分に焦点をあて、土佐の特殊な身分制度について説明があり、竜馬の功績として政治的に行ったこと・それ以外で行ったことをまとめていました。議題は、「坂本竜馬の人物像とは-革命家、政治家、実業家として」、「何が坂本竜馬を革命家として脱藩させたか」、「船が竜馬に与えた可能性とは」という三つでしたが、時間の関係上「竜馬とは」といった大きなくくりの中で意見を出し合いました。竜馬の人柄としては、自由気まま、武骨、他人任せでなく自ら行動におこすという意見が出ました。また、細かいことにとらわれず全体を見通す能力を持っていて、それが薩長同盟を成しえた一因ではないかとまとまりました。さらに、この時代の武士には珍しく商業的な感覚を持っていたことも竜馬の特徴であり、これは商家であった才谷屋の影響が強く、このことが最終的に船につながったのだという結論に落ち着きました。

今回は発表と議論合わせて正味20分程度しか時間がなかったため、十分な議論をすることはできませんでしたが、短時間で皆集中して取り組んで良い議論になったと思います。