吉田悦志ゼミナール 明治大学国際日本学部

Etsushi Yoshida Seminar

2011年5月30日
から kaori
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3年前期 第4回目 活動記録

初めまして、3年イベントプランナーのデカい人、福嶋です。

大好きなB’zがもうすぐ新曲を出すのが待ち遠しくて仕方ない!

…遅くなってすいません、3年生第4回目まとめていきたいと思います。

議論2回目の今回は司馬遼太郎の『燃えよ剣 上巻』について話し合いました。上巻は多摩、試衛館時代から大いに活躍した都時代までの土方歳三の姿を描いた物語。レポーターは小谷さん、司会は高橋くん。2回目ということもあって、前回よりも沢山の意見がでたように思います。

今回の議題は2つ。

1つは土方歳三の人となりについて―新撰組を作り上げていく上での歳三のやり方は、近藤から見てどうだったのか。(近藤は土方のやり方に賛成だったか、反対だったか)

そしてもう1つ、山南敬助はなぜ逃亡したのか。

1つ目の議題は同年代を生きた、と言うよりも「新撰組」という軍事組織を共に作り上げた近藤から見た土方というものでした。

新撰組が出来る前の「直参になれようが、なれまいが、どちらでもいい。」という心境から、「おれの夢は、攘夷大名になること」という心境になるまでに起きた芹沢鴨の暗殺や、池田屋事件といった土方主導によるアクションが影響して、近藤に「攘夷大名になる」という野心を抱かせた。

だとしたら、この間の土方のやり方に近藤は賛成だったか、反対だったかという議論の中盤で出た意見。

これに対しては近藤は池田屋事件の際に、土方が勘で推した池田屋に自ら行っている事からやはり近藤は土方のことを信頼していたのではないか。また信頼していたからこそ、近藤は新撰組を安心して土方に任せ自分は政治の道に興味を持つことが出来たのではないかという意見がありました。

また、近藤が土方を信頼していたと思うが、道場の経営主から新撰組の局長となり、幕府の後ろ盾を得られるようになったという彼の立場の変化も、「攘夷大名になりたい」と野心を抱く原因だったのでは、という意見もありました。

私個人としては浪士組に加盟するとなった時点で土方は近藤を大名、と言ったら大げさだけど、何かしら大きな組織の頭に据えようとしていたのではないか、と思っています。現に浪士隊が入京した時点で「歳三の闘争は、すでに始まっていた。」とありますよね。

っていうか、議論ではこんなこと言ってなかったんですけど、書き始めたらふと思いついたので書いてみます。

土方は浪士隊の権力を天然理心流系で掌握しようとしていた。浪士隊と別れ新撰組を設立した後も彼は、その権力を掌握しようとする手を緩めなかった。遂には芹沢系の幹部を粛清し、近藤を局長として新撰組を天然理心流系で掌握し遂げました。

なぜ彼自身でなく、近藤を局長としたのか。近藤が試衛館からの道場主だったから、自らが副長であった方が自由に隊を組織することができるから、それだけでしょうか。

私は土方には同門、同郷意識からくる、近藤だからその下で働くことができるという思いがあったと思います。みんなが出した意見にもあるように、近藤は土方を信頼していた、土方も同じように近藤のことを信頼していた。政治に興味がない土方にもこの人を世に出そう、この人を(大げさに言えば)大名にしよう、という思いがあったのではないかと思います。

この思いから来る土方の行動が、近藤に「攘夷大名になる」という野心を抱かせたのでは、と今更な気もする私の意見です。

二つ目の山南はなぜ逃亡したのかという議題。これは山南の置かれていた立場から考えようとなりました。

北辰一刀流で剣と水戸学を修めた山南は新撰組旗揚げ当初は土方と同じく副長でしたが、土方の手によって総長という、格では副長よりも上だが隊に対する権限、発言力が無い立場にさせられていました。

また、旗揚げ当初は「攘夷の先駆け」とその意義を掲げていたにも関わらず、時を経るうちに都の攘夷を掲げる志士を斬ることをその隊務とするようになった新撰組。その中で、尊皇攘夷の志士を多く輩出した水戸学を学んだ山南は新撰組に疑問を感じ始める。

このように脱走前の山南は総長という立場、そして思想という点で新撰組の中で孤立していたようです。

隊内で孤立しつつある中で、山南は当初の目的からずれ始めている新撰組に対し自らの逃亡、その先にある死をもって無言の批判を示したのではないか。隊の進む道に疑問を感じつつも同門の伊東一派に加担しなかったのはやはり新撰組に情があり、近藤を裏切りたくはなかったのではないか。様々な意見が出ました。

私は今までに何度か『燃えよ剣』を読んだことがあって、その度になぜ山南が新撰組から逃亡したのか考えていました。しかし毎度、結局どうして彼が逃亡するまでに至ったのかその決定的な理由を自分ひとりで見出すことは出来ませんでした。

読み方が浅いとか考えが足りない、とか言われればそれまでですが、それでも今回のゼミの議論を通して自分では考え付かなかった意見にも出会うことが出来ました。改めてゼミで議論する意義を感じられた気がします。

長い上に、まとめよりも自分の意見の方が長いですね!ごめんなさい!!

さぁ来週、じゃない、明後日!いよいよ『燃えよ剣 下巻』に入っていきます。七里研之助との決闘から土方の最期までの物語後半戦。

前回にも増して意見の出る議論にしたいですね!

2011年5月26日
から 沼野 晃
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今日のゼミ活動記録(4年前期第4回)

沼野です。最近の尊敬する人物は有馬新七と平野国臣です。

文久年間は英雄の時代だったんですね。志士が京都に群集するのを想像すると居ても立ってもいられなくなります。

本日のゼミ前期第4回について纏めたいと思います。

本日は「前半:ゼミ研修合宿、フィールドワークについて」を話し合い、「後半:発表」、そして「飲み会」という形になりました。

「前半」

ゼミ合宿やフィールドワークの大まかな日程を決定しました。今回はガチで研修合宿ということで、胸が高鳴っております。

「後半」

今回は「世に棲む日日」第1巻というか割と4巻全部の巻に渡ってレポートをやらせていただきました。

今回のレポートは3つの章に分かれており「長州史概略」「吉田松陰の思想の根源と人物関係」「吉田松陰の軌跡を辿る」で構成させていただきました。

今回のレポートには私、目標がありました。今まで扱ってきた課題図書の全ての人間関係や事件、事象をつなげるということでした。

それによってみんながよりよく、幕末を理解でき、歴史をもっと好きになって貰えるんじゃないかなと思ったからです。

「長州史概略」の幕末年表と「吉田松陰の人物関係」で今まで扱ってきた図書の内容をほぼ網羅したと思っています。

「最後の将軍」「王城の護衛者」「峠」「燃えよ剣」「新撰組始末記」「桜田門外の変」「壬生義士伝」などでしたね。

特に、人物関係図は皆さんの記憶をよみがえらせ、より新しく詳細な人物関係図を頭に描けたのではないかな、と思い胸をなでおろしています。

河井継之助、清河八郎、乃木希典、西郷隆盛、前原一誠、吉田松陰、松田重助、江幡五郎、宮部鼎蔵などなど、挙げるとキリがないですが、この人ここでつながってるんだ!!っていう発見が一つでもあったなら幸いです。

予想外に発表が70分と時間を取ってしまい、本日は発表のみとなってしまいましたが、でも今日はみなさんに新しい形のレポートを提示できたからよかったのではないかと思っています。発表者がつらつら発表してるだけだと時に退屈ではないかなと思って、聴講者に発言を求めたわけでした。

来週からの議論が楽しみです。僕の出番はもう終わりですからね!!睦くん頑張ってください。

「飲み会」

最後に4年生11名と先生で飲み会がありました。こんなに大勢の人が参加したのは久しぶりでしたね!

話は、幕末動乱の英雄から、就活、そしてくだらないことで盛り上がりました。自分は練習ばっかりで飲み会に参加したのは久しぶりでしたが、

楽しいひと時を過ごせたと思っています。

来週は「世に棲む日日」第2巻。よろしくお願いします。

2011年5月25日
から miho
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3年前期第3回目 活動記録

はじめまして、こんにちは。3年広報の中村です。
だいぶ遅くなってしまいましたが、先週の活動記録を記します。先週は、ついに文献についての議論となりました。正直、ハラハラ、ドキドキでした。

扱った文献は、『最後の将軍』です。レポーターは、木下氏。司会は、紀室氏が務めてくれました。
2人のクオリティーが高く、これからやる人にとってハードルが上がったかなって感じがしています。あらすじもわかりやすく、議論にすんなり移れたのではないかと思います。

その、あらすじについて軽くふれたいと思います。
慶喜は、水戸藩の出身であります。その、水戸は、尾張、紀州と並んで、御三家として分類されています。また、尾張、紀州のどちらかからしか将軍候補を出せないという流れでした。水戸はというと、田安、一橋、清水といった御三卿と同じ位(部類)とされていました。普通なら、水戸家から将軍になることは難しいのですが、一橋家の養子になったことや、13代将軍、家定に継嗣がいないことなどを背景に、慶喜は将軍の地位を得ることになったのです。

また、慶喜は多弁で歴史的知識も豊富だったことから、非凡な者と評価され期待が一気に高まっていきました。幕政の改革にあたり、自ら動くもの(人)を将軍にといった考えが、世に広まっていたのではないでしょうか。

しかし、そんな慶喜にも弱点がありました。それは、野心や野望の欠落。君主として育ったための意識の違い。(近臣が殺された理由が分からない:自分でなく近臣が悪い)などが挙げられる。また、最大の弱点として、“朝敵”になること(歴史に名を残すこと)を恐れていたのではないかと考えられる。逆に言うと、そういった行動をしなかったことが、大政奉還につながったのではないか。また、こういった考え方は、水戸学によって養われたものなのではないか。

水戸学とは、日本古来の伝統を追求する学問である。(神の子孫である天皇を幕府よりも大切にする・尊重する)慶喜以外にも、幕末の英雄と称される、坂本竜馬や伊藤博文(他多数)などにも影響を与えたとされる。

ここで、やっと、議論の中身について触れていきたいと思います。

議題は、1.徳川慶喜の生涯の主題とは。2.歴史の上で悲劇の英雄となれたのか。

冒頭に、“人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。”とある。

その、慶喜の主題とは一体何なのだろうか。議論の一部を簡単に紹介していきます。

慶喜は時勢を身をもって感じていたのではないか。このまま、グダグダと幕府を続けていくよりも自分の代で終わらせるべき・終わらせたかったのではないか。将軍になると決まってから、シナリオを持っていたのでなないか。(最後を決めていた。)頭がよすぎたがために、時代の先が見えてしまい、このまま幕府続けても、悪い印象で自分の名が歴史に残ってしまう。そのことを、恐れて、自分の手で壊したのではないか。

といった風に、慶喜は鎌倉から続いた武家社会(幕府)を終わらされるために、生を持ったのではないかという結論になりました。慶喜だったからこそ、いい意味で幕府を壊せたのだろうか・・・。慶喜以外の者の手で、終わりを作っていたらどうなっていたのだろうか。戦を避ける思考があったから、奉還後の傷を浅くできたのではないか。徳川の名・名誉を守れたのでないか。という考えもありました。

2つ目の議題について。結果から言うと、竜馬や岩倉の方が、現代では英雄として認められ、いい想いを持っている人は多いが、反面、慶喜は英雄として認めたくないという想いがあるのではないか。幕末の動乱に巻き込まれたことは、悲劇だったがそこに至るまでの振舞い方などが、私たちにとって簡単に英雄として認められなかったのだろうか。野心がなかったことで幕府をダラダラと続けず、いい見切りをつけられた。そのことは、いいと認められる(終わらせることは、英雄・優秀な人の証)が、当時の人からすると、頭が良すぎて何を考えているか分からない、そのために、その考えに振り回されたのではないか。(奉還時、何をしているのか・考えているのかわからない。慶喜に対しての不満)

結果がわかってしまっているから、こういった考え・議論の中身になったかもしれませんが、簡単に(悲劇の)英雄として、認められない部分もあったように感じました。

私個人の考えとして、今までの歴史の授業から、慶喜は歴史的能力に乏しく、周囲に促され(自分の考えなどなく周りに従っていた)大政奉還をしたのかと思っていましたが、全く逆だったのではないかと感じています。慶喜に対して、いい感情を持つこともできました。気に入ったものは、とことん追求する性格(3食のご飯を自分で炊いたとか)を知ることできたのもよかったかなと思っています。

一発目の、書記&書き込みということで何をしていいのか分からなかったんですが、これからやる人は、もっといいものを書き込んでください!!!

それでは、大変長く、駄文ですが終わらせたいと思います。

次回といっても今日なんですが、『燃えよ剣』ですね!!

レポーターは小谷氏。司会は、高橋氏。書記は福島氏です。よろしくお願いします。

楽しみです!

それでは、失礼します。

2011年5月19日
から 須山
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本日のゼミ記録(4年前期第3回)

 こんばんは。ゼミ長の須山です。

 そいえば、3年も見るなら自己紹介もすれば?って話でしたね。一応ゼミ長をやっていますが、他のゼミ員に支えられながらやっています。いつも協力ありがとう。個人的には議論の中で誰よりも発言をすることでゼミを活発にできればと思っているんですが、よく「黙れ」と言われるぐらい喋ってしまいます。この一年色々と読んできて、最も印象に残った人物は河井継ノ助。次点で慶喜かな。司馬さんの『峠』は是非3年生にも読んでほしいですね。

 

というところで、今日の議論をまとめましょう。ゼミ始まって以来と言っていいほど、中身のある議論になったと思います。こういう日こそ3年生にちょっと見て行ってもらいたかったなー、なんて。

 まず、『一刀斎夢録』下巻に描かれているこの物語の主題「殺すは易く、生かすは難い」ということを巡って議論は盛り上がりました。一刀斎は自らの人生を語り聞かせることによって、梶原に対して「殺すは易く、生かすは難い」ということを示したのは明確ですが、ではそれは何のためにだったのか、そして、梶原はその話を聞くことによってどうなったのか。そこが大きな問題点でした。「斎藤が梶原に伝えた、勝つこと負けることの意味とは」「なぜ梶原の目には山縣が「力なく蹲る老人」にしか見えなかったのか」という議題をもとに、その問題について話してみたわけです。

 「殺すは易く、生かすは難い」という観点から言えば、鉄之助を殺してしまった斎藤は負け、鉄之助が勝ちであるということはその言葉の直後に語られています。これをこの物語に登場する他の人物にも当てはめてみれば、勝者には鉄之助、西郷、土方などが入り、敗者には斎藤や山縣が入ることになるでしょう。

 なぜそうなるのか。それは勝者となった人物が、何よりも難しい「生かす」ことを成し遂げ、結果的に他の誰か・何かのために死んでいった者たちだからです。それを最もよく表しているのは、この本における西郷と山縣の関係でしょう。旧時代の象徴として反乱軍を率い、自己犠牲によって新時代を確固たるものとした西郷は英傑として描かれている一方で、その西郷を倒し、まさに新時代を切り開いた張本人であるはずの山縣は敗れ果てた「力なく蹲る老人」として描かれているわけです。まさに、新時代を生かした西郷が勝者であり、旧時代を殺した山縣が敗者になっています。

 しかし、ここまで論じてみると疑問が湧いてきます。「梶原が榊吉太郎との試合に勝ったら、梶原は「殺すは易く、生かすは難い」という意味において“敗者”になってしまうのではないか?」ということです。しかし、この疑問についての考えていく中にこそ「何のために一刀斎はこんな話を梶原にしたのか」という問題に対する答えが隠れていました。

 結論から言ってしまえば、一刀斎は梶原を単なる“敗者”にしないために「殺すは易く、生かすは難い」ということを語り示したんだと言えます。“敗者”である斎藤や山縣は、自らの手で“勝者”を殺した後にやっと「殺すは易く、生かすは難い」ということに気付き、自分達が“勝者”に生かされた存在であることを実感したのでしょう。だからこそ、斎藤は彼には似合わない罰のような人生を辿り続けることになり、山縣も「力なく蹲る老人」になりました。そして、そんな二人が梶原を見つめる視線はよく似ていたのです。彼らは自分達が“敗者”になってからやっと気付いたことを、これから勝負をすることになる梶原に知っておいて欲しかったのではないでしょうか。山縣は西郷の銅像を作ることによってそれを示しました、斎藤は自らの口でそれを示しました。「殺すは易く、生かすは難い」こと、勝負に勝ち、生かされた者が背負うことになる“勝者”の想いや重み。そういったものを知った上で、なおそれを背負う覚悟を持って梶原が榊に勝つ(真剣勝負ならば殺す)のならば、それは斎藤や山縣とは全く違います。そこにこそ大きな意味があり、梶原は“敗者”ではなくなるのです。

 また、榊吉太郎の存在は斎藤一と被ります。天下無双の剣士であり、一刀斎から「殺すは易く、生かすは難い」ことを学んでもいません。まさに、鉄之助を斬ってしまうまでの斎藤一です。「追い詰められて身じろぎもままならなくなった者」という描写からも、鉄之助を追いかける斎藤がイメージされます。梶原はその榊に勝つことで、同時に斎藤一という存在にも勝つのだと言えるのかもしれません。そして、それは一刀斎から見れば、あの時生かされた斎藤一という存在、多くのものを背負わなければならなくなる斎藤一という存在が、ついに殺された(誰かを生かした)ということだと言えます。しかも、「殺すは易く、生かすは難い」こと、“勝者”の存在を知った相手に。一刀斎にとってこの勝負は、斎藤一の存在と一刀斎が背負った罰のような人生の清算にもなったのかもしれません。

 

 こんなもんでしょうか。ラストの部分は自分の考えも加わっています。

 とりあえず、議論で話されたことは書いたつもりです。ただ、やはり長く、わかりにくくなってしまいました。すいません。今日はもう遅くなってしまったのでここまでにしますが、また更新していくかもしれません。だけど、これぐらいまとめがいのある議論がこれからもできればいいと思います。

 来週は『世に棲む日々』1巻です。

 では。

2011年5月19日
から 沼野 晃
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斗南3万石

日本史が猛烈に好きな沼野と言います。

バンドとスノボをガチでやってます。特徴はピアスとタトゥーです。こんにちは。

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会津士の武士道を垣間見た瞬間について綴ります。

会津藩は藩祖を保科正之という。2代将軍・徳川秀忠の側室の子である。

この会津藩の保科家は後に松平姓を許されて、会津23万石を賜った。

時代は転じて幕末へ。

文久の改革によって、会津藩主・松平容保は京都守護職を賜った。

歴史を俯瞰できるわれわれにはこの京都守護職というものが火中の栗を拾うようなものだと知っている。

しかしこの京都守護職の拝命というものは、当時の会津藩の人々ですら察知していた。家老・西郷頼母などは藩主・容保に対して、諌止していることなどから数多く窺える。

それはともかく、会津藩はこの京都守護職というものの役料としてさらに5万石を下賜された。

計28万石である。

さて、戊辰戦争に於いて、鳥羽伏見の戦いに始まり、会津戦争で終結を見る一連の会津の悲劇は斗南藩3万石へ配流という形で終結を見た。

ここに会津人の塗炭の苦しみが始まる。

“関ヶ原の戦いに於いて中国11カ国を統べる毛利家はその責を問われて防長2ヶ国に減封された。100石のものは3石に、30石のものは無禄へと転じた。”

“戊辰戦争で敗れた幕臣たちは徳川宗家の静岡藩へと続々と移住して行った。ここでも旧畑旗本たちは自ら鍬を振るい開墾し、窮乏の中を過ごした”

と2つの例を挙げたが、会津藩の苦しみとはそれを上回るであろう。

斗南藩とは今の青森県下北半島である。3万石と称されるが実際の取れ高は6000~7000石であり、そこから28万石の藩士、その家族を養うのは無理であり、ひと冬越すごとに続々と餓死者が出た、というから会津の苦しみは推して知るべきであろう。

当初、会津藩の移封先については選択肢が2つあった。

猪苗代か斗南に3万石を下賜する。というものであった。

会津の人々は当然、たとえ3万石であっても馴染みのある会津に残りたいと思った。(猪苗代説)

しかし、会津に残り、新政府に無用の懸念を抱かせないように斗南を主張した人物がいた。(斗南説)

3人いる。山川浩、永岡久茂、広沢安任である。

しかし、会津人が実際に斗南に移住してみると、延々と続く荒野に人々は絶望した。人々から怨嗟の声が挙がる。「会津に残りたかった」と。

ここで3人はそれぞれの精神に則って責任を取った。

この3者3様の責任の取り方が非常に趣深い。

まず山川浩であるが、彼は新政府に仕え、そこで立身出世することによって会津人を養い、また会津人の官途を開こうとした。現に彼は最終的には陸軍中将という顕職に昇っており、西南戦争などで活躍している。薩長閥に所属しない彼が中将に累進するために要した苦労というものは計り知れない。同時に「京都守護職始末」という史書を編纂し、朝廷と会津の関係性を指摘し、会津藩が朝敵ではなかったことを証明した。この「京都守護職始末」は彼が没してのち、弟の山川健次郎によって引き継がれ、戊辰戦争の60年後に完成した。なんとも壮大な責任の果たし方であった。

続いて永岡久茂である。彼の行動は武士らしく「腹を切って詫びる」という精神に基づいている。しかし、ただ腹を切るのではなく、薩長の連中に全会津藩士を代表してその怨念を一矢でも報いるべしという精神である。

結果、思案橋事件という形に発展し、その事件で死を遂げる。

最後に広沢安任である。

彼の責任の果たし方は現地・斗南における開墾に生涯を捧げるということであった。、現地で酪農業を興し「斗南はやはり開拓可能だった。自分らは嘘をついていなかった」ということを生涯を通して証明したのだ。

彼の興した事業は現在も(規模は縮小されているとはいえ)広沢牧場と名を変えて存続している。立派なものである。

2011年5月14日
から 吉田 悦志
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2011・3年前期第1、2回

3年生は全員では初の顔合わせをしました。

第1回は、「幕末維新期の思想と群像」を年間テーマにしながら,どう進めるかを話しました。自己紹介もやりました。

第2回は、ゼミ長をはじめとする役職を相談の上決定しました。また次回からの講読文献やレポーター、司会を決めました。4年生が参加してくれ、適切なアドバイスをくれました。

2011年5月13日
から junko
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「すべての人生について」浅田次郎

おはこんばんにちは。4年の田中です。前回のゼミの日にちょこっと3年生のゼミを見学し、おこがましくもレポートのお手本みたいなことをしてしまいましたが、皆真剣に聞いてくれていたようなので安心しました。3年生みんなシャイですね。もっとわいわいがやがやしていいのに!一回6限の私たちの授業見てみてほしいなーと思いました。質のいい深い議論は、笑いがあって遠慮が無い環境が一番だと思います。我々のお笑い担当の実力をその目に焼き付けてください。とにかく、これからどっさり本を読むことになると思いますが、めげずに頑張って行きましょう。読む、語る、集うです!4年生も一週目に気合入れ直したし、なんだか幸先のいいスタートですね!夏合宿が楽しみです!

 

と、前置きが長くなりましたが本題に入ります。

今日本屋で浅田次郎先生の「すべての人生について」という本を偶然見つけました。ちょこっと開いてみたら、ふむふむ、どうやらいろんな雑誌で行われた浅田先生の対談集のようです。で、目次を見てたらなんと国際日本学部の張競先生の名前が!浅田先生と対談なんていつしたのうらやましい許せん、ということで購入。さっき気になるところだけ読んでみたのですが(ちなみに張先生は中国史のお話しかされていなくて、ついていけなかったので途中で諦めました)これが面白い。

特に北方謙三先生や津本陽先生との対談は非常に興味深かったです。歴史小説家同士なので、歴史とフィクションという観点から彼らにしかできない話もしていますし、普段は明言されない「どの人物が好きで、どの人物が嫌いか」なんてところも書かれていて単純に面白いです。新撰組オタクな津本先生との対談は双方熱くなっていてちょっと笑えます。いち、歴史ファンとして私たちとそんなに大差ないのかもと。

それから、当たり前かも知れませんが、私たちの知識の不十分さ至らなさというのも同時に感じました。浅田先生始め幕末の歴史について対談している人のほとんどが、勝海舟をあまり支持しておらず、山岡鉄太郎の方を功労者としてたたえていました。また、北方先生は西郷の器が大きい寛大な人物というイメージに否定的で、むしろ幕軍を見捨てて逃げてしまった慶喜の方が開明的で時代の先を読めていたのではないか、と話しています。(浅田先生は慶喜が大嫌いです。) こういう点を見ると、かなり読んで勉強してきたつもりでも私たちはまだ「目立つ人物の目立つ面」というところに目が行きがちなのかなーと思いました。そういう意味でも、何かと薩摩や龍馬の影に隠れがちな長州藩にスポットをあてた「世に棲む日々」は非常に楽しみです。

また、元台湾総統の李登輝氏とは「武士道と愛国心」というテーマで、歴史教育とか道徳とか、国際化する社会におけるアイデンティティーのありかたとか、まるごと私たち現代人に投げかける内容のお話をしています。これから読みますが、森永卓郎先生や中村勘三郎さんあたりも現代に引きつけた話をしてくれていると思います。以前「峠」をゼミで扱ったときに、「自分の身にひきつけた読み方」をしていこうっていう話が出たのを覚えていますか?ここで対談に出演している知識人たちの言葉の中に、たくさんそのヒントがあると感じたので、暇があればぜひ皆にも読んでほしいなあと思いました。

一本一本の対談は短いですし、喋ったまま書かれているので案外すぐ読み終わります。私も30分ほど読んでこれを書いているくらいです。というわけで、興味がある方はお貸ししますので言ってください!

 

http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106026058/subno/1

 

p.s.相も変わらず稚拙な文で申し訳ないです。ネタバレにならない程度に面白さを伝えるって難しいですね。上手い推薦文が書けないんですが、誰かそういうの得意な方いたらお手本見せてくれませんか。

2011年5月13日
から 須山
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ゼミ長の勝手に活動記録(4年後期第2回)

 こんばんは。ゼミ長です。荒井君が持ち前のユーモアをこらした素晴らしいクイズを出してくれましたが、物足りないので書いちゃいます。

 まず、ちょっとホームページを更新したので報告します。2期生が入り、このページも使うということなので、「ゼミ員紹介」と「課題文献」のページをそれぞれの学年で別々のものにしました。自分の学年のものを使ってください。3年の「ゼミ員紹介」は今まっさらな状態なので、自分達で更新してください。

 で、今週のゼミ。レポートは乃木将軍について、議題は荒井が言っている通りでした。レポートがなかなか濃い内容で良かったと思います。個人的にも乃木将軍については全くの無知だったので、新鮮な話ばかりで面白かったです。

 また、今週の議論は下巻を読んでいくための足掛かりになるような内容だったと思います。「なぜ龍馬暗殺の話から始めたのか?」という議題に対して、僕が主張した「殺すことはこんなにアッサリとしたものなんだということを示すエピソード」という考えは、下巻で語られる「殺すことは簡単だが、生かすことは難しい」という大きなテーマにも繋がってくるはずです。

 レポートで扱われた乃木将軍についても「殺すことは簡単だが、生かすことは難しい」という考え方があるからこそ、この本ではどこか否定的に描かれているんじゃないか、ということも話に出ました。何かを生かすために死んでいった人間をたくさん目にしてきた一刀斎からすれば、乃木将軍の殉死は「何を生かすでもなく、自らを殺すという楽な道を選んだ」ように思えたのではないでしょうか。

 「負けた側の人間が見てきたものが語られる物語だということを強調するエピソードなんじゃないか」という考えも、なるほどなと感じました。新撰組、斉藤一の話が印象的なのは、やはり根底に歴史的には負けた側の人間であるという事実があるからだと思いますし。

 そういうことで、これから下巻を読む人達には今週の議論をふまえた上で物語を楽しんでほしいかな、と。何度も言うように、最後はとにかく泣けます。そして、読んでいて「泣ける」ということは、そこに何か大きな想いとか、重要な事を感じている証拠だと言えるでしょう。その部分をしっかりと考えてくれば、議論の方にも活かせるんじゃないかと思います。

 

 では。これぐらいで。

2011年5月12日
から yoshihiro
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今日のゼミ活動記録(4年前期第2回)

はい、どうもこんばんは。

暗闇にきらめく一筋の流れ星、荒井です。

えー、ね。今日は一刀斎夢録の上巻についてみんなで議論したわけですけれども。

なかなかに盛り上がりましたね。議題はちなみに「斎藤一はなんで天然理心流に惹かれたか」っていうのと「なんで竜馬殺しをしょっぱなに語ったか」っていう。みんなの意見としては「親と相反するタイプの人間に惹かれたんじゃねーか」とか「自分程度がいていいのはこんなもんだ」みたいなのがでてました。まあどんなに語っても答えはないのでね。僕にはわかりましぇん。

まあ、そんなこんなでみなさんお待ちかね。

荒井君の素顔がわかっちゃう嬉し恥ずかしドッキリ企画、「荒井君のベスト隊士クイズ」の時間でぇ~す!!!!

はい拍手~。

問い1、荒井君が一番好きな新撰組隊士は誰でしょう

1山南敬助

2沖田総司

3藤堂平助

さあ誰でしょう!正解しちゃった人にはもれなく俺の生写真(サイン入り)をあげちゃいます。

はい、ざんね~ん。時間切れ。正解は山南さんでした~。ちなみに一番好きなタレントは佐々木希です。

ていうか選択肢に斎藤一入ってねーのかよっていうね。

ぶっちゃけ今めちゃめちゃスターウォーズがみたいんですが来週までに下巻読まないといけないので我慢します。

偉いぞ俺。

それではまたいつか。フォースと共にあらんことを。

2011年5月5日
から 須山
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昨日の活動記録(4年前期第1回)

 どうも。4年ゼミ初更新なゼミ長です。

 昨日は眠かったので、書き込みしませんでしたが、一応今日書きます。

 

 色々と話し合いました。わざわざその内容に再度触れることはしませんが、とてもいい機会になったと思います。各々が考え、各々があの時に言ったことを裏切らないように取り組んでくれれば、それでいいと思います。自然ともっと良くなっていくと思います。

 それもあったので最初の課題『一刀斎夢録』に取り掛かるのは来週から。初っ端ですが、しっかりと、楽しく議論をしましょうね。ちなみに11日が上巻、18日が下巻です。

 その後の課題も司馬遼太郎『世に棲む日々』に決定。吉田松陰、高杉晋作。なんだかんだで長州の人物をしっかりと扱うのは初めてかもしれません。楽しみ。25日に1巻から始めます。

 そいえば、このサイト3年も使うんでしたっけ?僕は昨年度、議論の内容を自分の感想も含めつつまとめていたのですが、頭の整理として非常に役に立った実感があります。オススメしますよ。まあ、案外に書くの難しいし、時間もかかりますが、それだけの価値はあるかと。

 4年は言った通り、今年度はみんなで回して書いてもらいます。順番とかは来週考えます。

 

 最後に、最近読んで面白かった本は法月綸太郎『密閉教室』です。ミステリ。あと夢野久作『ドグラマグラ』を読み返したい気がしています。でも、今読んでいるのは北野勇作『どろんころんど』です。みんなも読書しよう。